独り言

本当に独り言です

縁の巻

タイトルを見て「緑の巻」だと思ったやつは1回視力検査に行った方がいい。以上。

 

さて今日は縁の話をしよう。

無論「ふち」の話をしたいわけではない。

僕が話したいのは「えん」の話だ。

よく就活生にメールで送られてくる「今回はご縁がなかったということで~」の縁である。

もしこのブログの読者の中に現役就活生の方がいて気分を損ねたのであれば、それは僕の責任ではない。

 

縁でよく言うのが「縁がある」とか「縁を切る」という言い方だが、こういう言葉をみるに縁は細長い紐のようなもので身体から飛び出しているイメージかもしれない。

このイメージは、人の縁を象徴する最も典型的なもののひとつであろう恋愛関係、特に「赤い糸」に由来する考え方だと思う(縁のイメージと赤い糸のイメージのどちらがどちらに帰結するのかはわからないが)。

小指に巻きついた赤い糸を辿っていくと同じように小指に赤い糸が結ばれた人と出会う。

この結ばれた相手のことを俗に人は「運命の人」と呼び、これがきっと「縁」のイメージとして僕の中に根付いているのだろう。

 

だが、縁は本当に「切る」ものなのだろうか。

自分の身体から飛び出した紐が結ばれた先が本当に「縁がある」ところなのか。

一度切った縁はどうなってしまうのか。

 

そういう細かいところが気になってしまうのがまた僕の悪い癖でもあるが、僕にとって縁は「手に取る」ものであり、「切る」ものではない。

 

縁という言葉に付随する長い紐のようなイメージを否定することはないが、その紐は日常生活の様々なところに落ちていて、決して身体に結びついてはいない。

我々は無数に落ちている紐の間を歩いて生きており、たまにしゃがんでその紐を手に取り、その紐を辿って歩き出す。

ずっと歩き続けていると、だんだん向こう側から同じ紐を手に取って歩いてくる人が見えてくる。

そうやって同じ紐をたまたま選んだ人が俗に言う「縁のある人」なのだ。

 

この考えの推せる点としては「主体に意思決定権限がある」ということである。

身体に結びつけられた紐と違って、紐を拾うという行為は主体の意思によって行われる。

もし嫌になればその紐を放棄すればいいし、また同じ相手と会いたくなればその紐を探して手に取ればいい。

縁に対してそれくらいの取捨選択をしてもバチは当たらないだろう。

 

導入が長すぎて書きたいことを全ては書ききれないが、長くなりすぎても面倒なので今日はこの辺で。

また書きたくなったら追記するだろうが、こんなことを書いている暇があったらさっさとRDの脚本を書けってんだ。