独り言

本当に独り言です

語りの巻

やはり人と話している時の方が書きたいことはすぐ思いつくものであって、今日は語りについて少し思ったことを述べさせてもらう。

 

先日親しい知人と話している時に「文字で語る」という言い回しを耳にした。

この面白いところは「文字」という音をもたない媒体に対して「語る」という音をもつ動作を当てはめたところである。

 

普通僕らが文字を使う時、そこに音は存在しない。

しかし僕らは時々、音をもたない物から音を汲み取っているのだと思う。

それは文字であったり、ペットの表情だったり、花だったりする。

そういったものから僕らは勝手に音を汲み取って、勝手に脳内で再生する。そうすることによって「語る」という行為を作り上げているのだ。

 

物語という言葉が一番端的にそれを表してるんじゃないかな。

元々は話し言葉によって人々の間を渡り歩いていた物語が、いつからか文字となって紙の上に住み着き、その紙が人々のもとに届けられることで物語が伝わっていくのである。

紙の上に住む物語に音はもちろん存在しないけど、それでも物語と呼ばれるのは、受け取る側が勝手に音を汲み取ってるからなんだと思う。

 

これは個人差があるかもしれないけど、国語の授業とかで教科書黙読する時に心の中で文章読み上げない?

先生が朗読してるのを聴きながらとかそういうのあったと思うんだけど、僕はその時1人で心の中で文章を読み上げながら読んでたし、それでも先生の朗読よりだいぶ早く読み終わっちゃうから結局同じところを2、3周読んでた。

自分の中で読み上げた方がなんとなく気持ちに入ってくるんだよな。

登場人物の心情とか、情景描写の文とか、そういうのを自分で読み上げた方が場面が想像しやすいし、頭の中に話が入ってきて登場人物達が勝手に動き出す。

そんな感じで心情を予想してるのに国語という教科はそれをバツ扱いしてくるからいけないんだ。

文章中に答えはあるからとか言うけどあんな短い時間でその答えを見つけるために必要なことは字面を追うことであって物語を読むことではない。

字面を読むことで確かに答えは見つかるけど、字面を読むことに音はない気がする。

それは「物語」ではなく「紙に書かれた記号」でしかないんだよな。

それを読んで国語力だって言うなら速読力って言ってくれ。

語りってのは読み手が勝手に音を与えてるんだから、そっちの解釈にいちいち付き合わせないでくれ。

 

何について書いてたんだっけ。

もういいや。おやすみ。