独り言

本当に独り言です

幸せの巻

私がこんなブログを書こうと思い立っているということは、

私が今満ち足りた気分であるということを、

暗に示しているのだろう。

 

幸せという、

非常に抽象的な概念は、

今というこの時代において、

何らかの“形”を持つことを求められている気がする。

 

もちろん元々幸せというものに形はないし、

人はそれぞれ違う幸せを追い求めている。

しかし、

ありとあらゆる“モノ”に接続できるようになった現代において、

幸せを求めるプロセスは、

複雑化したと言っていいだろう。

それは幸せに到達すること自体が、

そもそも難しくなったということでもあるし、

幸せを求める過程において、

今までは存在しなかった、

新しいステップの導入によって、

幸せへのアプローチが難しくなったということでもある。

 

さっきも言った通り、

本来幸せには形がない。

しかしモノや情報が溢れる現代は、

ありとあらゆるものが可視化され、

その結果として、

我々は幸せという概念にも、

何かしらの“形”を求めるようになった。

それは“幸せ”という、

見えないものへの不安の顕在化であると同時に、

社会へのアクセスが容易になったことで発生した、

“自分”という一個人の社会進出のもたらした弊害でもあると私は考える。

 

何もかもが見えてしまう世の中で一番怖いことは、

見えないことである。

我々は見えないものへの不安を取り除くために、

様々な知識を総動員して、

見えないものを見えるようにする、

科学という人類の叡智を獲得した。

 

そしてそれは、

“幸せ”に対しても同様だった。

我々は“幸せ”に形を与えるために、

科学の力を借りた。

写真である。

記録媒体であった写真に、

幸せを映りこませることによって、

“幸せ”という名の透明人間に、

服を着せたのだ。

 

1人1台スマホという名のカメラを持つような今日では、

“幸せ”に服を着せるのは、

大変単純かつ簡単な作業である。

我々は往々にして、

幸せのデザイナーになった。

 

そして、

誰もが幸せに“服を着せられる”ようになったことで、

今度はその服装のセンスを問う、

ファッションショーが開かれるようになった。

幸せに形を求めた我々は、

さらに幸せの尺度を社会に丸投げし、

評価されることを求めたのだ。

我々は幸せのデザイナーであると同時に、

幸せのプロデューサーにもなったのである。

 

人々はこぞって自分が幸せであるという証拠を残し、

それをSNSというファッションショーの場に送り込んだ。

 

こうして幸せは、

写真に映るという限定的な形を与えられ、

評価されるという新たなプロセスを含まされた。

 

しかし、

何度も言うようで鬱陶しいかもしれないが、

幸せには形がないのである。

我々が必死に求めた、

写真に映り、

社会に評価される幸せは、

我々が勝手に作り上げた、

幸せの偶像に過ぎない。

 

幸せという概念から独り歩きした偶像に縋るくらいなら、

誰に評価されなくても、

自分の求める幸せを探した方が、

圧倒的に意味のあることだと思う。

自分自身が満足できる、

幸せを追い求められれば、

それで十分ではないだろうか。

 

誰かにわかってもらう必要はない。

理由などどうでもいい。

わかるやつが勝手にわかればいい。

 

私は今、

幸せである。