イデアの巻
「お皿」と「お盆」の境い目ってなんだろう?
この問は私が150円のフライドポテトを食べている時、
ふと生まれた小さな疑問から派生したものである。
元々は、
マクドナルドのトレーに紙を1枚敷いたその上にポテトを置いているのを見て、
「これはトレーに食べ物を直置きしたら不快になるのだろうか?」
と思ったのが始まりだった。
プラスチックのトレーに食べ物を直置きするより、
そこに1枚の紙があるだけで、
人々は清潔感のような安心感を得ている可能性がある。
では、
「食品を置くならプラスチックより紙の上の方が安心感があるのだろうか?」
これは多分ノーだ。
プラスチック製のお皿なんて山ほどある。
紙の方が安心なら、
今頃全ての皿は紙製になっていてもおかしくない。
そこで思いついた。
「トレーは食品を運ぶものであって食品に触れるものではないから食品と触れると不快なのであって、皿は食品と触れるものだから安心感がある。この場合、紙が皿の役目を果たすことによって、トレーに食べ物を置くことのストレスを軽減しているのではないか?」
これは私の中では比較的しっくりくる問だった。
皿とトレーの定義を考えることで、
それぞれの役目を規定する。
それによって抵抗がなくなる可能性である。
しかしひとつ難点なのは、
「お皿」と「お盆」の定義である。
定義の意味もそうだが、
定義とはそもそも区別するために創出された後出しの意味であって、
その前から存在する「お皿と名付けられる予定のもの」と「お盆と名付けられる予定のもの」の差がわからない。
最終的にそれを盟友に相談したところ、
「我々はお皿とお盆のイデアを認知しているのではないか」という、
なんとも哲学的な立場にたどり着いてしまった。
マクドナルドうっかり哲学入門。
なんでこんなことを真剣に考えながら、
私はポテトを食べていたんだろう。