惰性の巻
久々に風呂に入った。
というのも、ここ数日意味もない寝落ち(寝落ち自体に意味があるかはわからないが)を繰り返し、まともに風呂に入ることができなかったのだ。
家から出ることもなく、西日が部屋に射し込む頃に起きて昼食をとり、そこからなにをするわけでもなく娯楽に走っては、日が落ちて夕食の準備が出来るのを待ち、夕食を食べればまた部屋に戻って生産性のない娯楽に興じ、そのまま夜が更けるのを目をつぶって見なかったことにして、親が寝床に入り、世間が寝静まっても、部屋の電気を消して、画面の中で行われる“催し物”をのんびりと眺め、声を押し殺して笑い、今日こそはちゃんと風呂に入らなければと思いつつも結局その気は起きず、ベッドの上で脱力し、カーテンの外側がゆっくりと白んでいくのを横目に、もう朝が来てしまったのかと半ば諦めたような、また少しホッとしたような気持ちになって、1時間も経たないうちに起きて朝食をとり、仕事に向かう親のことなどを考えながら、しばらくすると視界が途絶え、目が覚めるとまた西日が傾いているのだ。
はっきり言って何もしていない。
ただし、何もしていなくても疲れは溜まるのだ。
人間、気づいていないかもしれないが、生きることはとても疲れることなのだ。
生きている、ただそれだけで人間は恐ろしいくらいのカロリーを消費する。
ここ3日間、何もしていなかった私でさえ、何故か1kg程痩せてしまった。
摂取カロリーと消費カロリーのバランスを考えれば、痩せるのはほぼ必然的であるのだが、そんなことでさえ私は見過ごしていたのである。
哀れ。
体内に蓄積されていたエネルギーを一部変換して生きているからなのか知らないが、日に日に疲れの溜まり方が大きくなっている気がする。
横浜に停泊していたなんとかプリンセス号の乗客も、こんな気分だったのだろうか。
反吐が出る。
風呂に入ったところで私の疲労が湯船に浸かってきれいさっぱり無くなってくれる訳ではないし、むしろ入ったことで余計に疲労が溜まったような感覚もあるが、その真偽がどうであれ、そうなった責任は風呂にはない。
全部、自分のせいなのだ。