本屋の巻
本屋には魔力がある。
大学のゼミの課題の本を買うために、閉まる直前の紀伊國屋書店新宿本店に駆け込んできた。
課題の本は2つあり、1冊はすぐに見つかったがもう1冊が全然見つからない。
それもそのはず、その本は2008年発行で、今はもう新品が出回っていないみたいなのだ。
仕方がないのでこれで帰ろうかと思ったが、私は踏ん切りがつかないでいた。
自宅から1時間かけてわざわざ新宿まで来たのに、本を1冊買って帰るだけなのはなんとなくもったいないのではないか。
ましてここは明日から閉まってしまう本屋。明日読みたい本が見つかっても、買いに来ることはできない。
それならば、今のうちに面白そうな本を数冊買ってもいいのではないか。いや、むしろ買うべきなのではないか、と心の中の私が問いかける。
その時ふと1冊の本が目に入った。
その本は先日近所の図書館で借りた本で、非常に良い本だったので是非とも家に置いておきたいと思っていた、上野千鶴子先生の「情報生産者になる」であった。
これは元々欲しかったのだし、今買ってもなんら問題ないだろう。
ということで、手に持つ新書が1冊増えた。
と、その瞬間。
視界の右端から1冊の本が私に向かって飛び込んできた。
古賀史健さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本である。
本屋の怖いところというのは、買いに来た本を探しているうちに、“多分ここで買わなかったら一生出会わないだろうな”という本がわんさか出てくるところである。
変に売れそうな本(有名人の顔写真がでかでかと載っている帯がついていたり、はたまた「〇〇が大絶賛!!」みたいなキャッチコピーがついている本)に関しては、ここで一度スルーしてもまた巡り巡ってどこかで必ず会えるという謎の自信があるのだが、そうでない本については、本当に、この瞬間、それを見逃したら一生見つけることができない本というのが実在するのだ。
そして私はこの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本に、それを感じ取った。
きっと私が今20歳だからこそその本と出会えたわけであって、これがまぁ仮に数年後、数十年後にどこか街角の本屋で出会ったとしても、その時の私はほぼ確実にこの本を手に取らないだろう。
そう考えた時、私は自然とこの本を手に取っていた。
結局予定外に2冊も本を買い込み、予定した本は1冊買えないという、散々な出費をして帰ってきた。
恐るべし、本屋の魔力である。