焦燥の巻
ずっとスケジュール帳もカレンダーも見ていないから忘れがちだけど、今日は6月2日、火曜日だった。
ずっと自宅にいると、課題の締切だったり、何かしらのイベントの日程だったり、そういうものを全て忘れてしまう。
私で言うならば、明日は成績評価で重要なレポートの締切日兼テスト日だし、大学からの助成金の申請は明後日までだし、昨日から就活の夏季インターンシップのエントリー受付が始まっているらしい。
ただ、それは全て窓の外で起きていることで、窓の内側、即ち私の生活には何も変化がない。
レポートは昨日の段階で9割終わらせていたから、今日別に焦ることはないけれど、助成金も就活も、大事なことのはずなのに、恐ろしいくらいに焦燥感がない。
外との関わりが薄いことの弊害である。
今日、東京はコロナの新規患者が30人を超え、東京アラートが発令されたらしい。
東京アラートという言葉が先行しすぎて、具体的にどんな内容なのかはわからないが、恐らく、ここ1ヶ月自室から出ていない私には関係のない話だろう。
ほとんどがこういう思考に陥ってしまう。
自分には直接関係ないだろう、みたいな。
1ヶ月隔離されていて、自分でもよく耐えられているなと思う。
気がついたら早寝早起きの習慣ができていたし、課題や授業でやることはあるし、読む本はあるし、隔離生活を見かねた父親に譲ってもらったキーボードも部屋にあるし、ベッドに向かって卓球のサーブ練習をすることもできるし、窓から外を眺めて川を行き来する船を見ることも、街を彩る木々が風に揺れる姿を眺めることも、校庭で遊ぶ子供の声を聞くこともできる。
こうやって書き出してみると、部屋の中だけでもある程度満たされているのかもしれない。
会いたい人に会えなかったり、行きたい場所に行けなかったりするのは少し寂しいが、“新しい生活様式”に慣れてしまったことで、一定の満足感が得られてしまったのだろう。
一度満足してしまうと、その状態が不変であることを少し期待してしまうが、私はそろそろ外と関わって、生きている世界が日々刻刻と移り変わっていることを自覚しなければいけないし、そういう意味では、今私は社会の波に乗り遅れている、いや、そもそも社会という大海原に乗り出していないのだ。
時代に乗り遅れていることを、慣用句で「バスに乗り遅れている」というらしい。
もしかしたら、私は今乗っているバスのことを、全く知らないのかもしれない。