静寂の巻
ついに梅雨入りである。
5月初旬から病院以外の外出を全くせず、ついに梅雨になってしまった。
どの道暫く外出出来ないのであれば、雨が降っているという名分があるだけまだましかもしれない。
しかし、外に出る機会がこれで約1ヶ月失われるだろうと思うと、心底残念である。
昼過ぎになって、関東も雨脚が強くなってきた。
部屋の中に雨が吹き込んでくると困るので、窓を閉める。
完璧に外界と断絶された空間が出来上がった。
窓もドアも開いていない、ただの大きな箱の出来上がりである。
窓を閉じてみてわかったことだが、この部屋には音がない。
隣の部屋でテレビ会議をする父親の声も聞こえてこないし、窓が閉まっているから外の音も聞こえてこない。
リビングのテレビの音は聞こえないし、隣の家の家族の声も聞こえてこない。
私の部屋は、静寂に包まれていた。
音のしない空間は、ちょっとだけ快適だった。
プライバシーを体現したような場所という意味では、私が最も欲しかった空間かもしれない。
最近は自主隔離をしているせいで、自分はどこにも出入りできないのに、親は自分の部屋に出入りするという、めちゃめちゃ広義のプライバシーの侵害に遭っていて、私としては少々それが不愉快だったのだ。
そもそも、昔の家なんて家庭内のプライバシーの保護なんか半分関係ないようなものだったと考えれば、私が自宅にプライバシーを持ち込んでいるのはおかしいのかもしれない。
だがしかし、私は私のプライバシーを、たとえ相手が親だとしても、守りたいと思ったのだ。
これはおかしいことなのだろうか。
そんな議論はさておき。
一方で、音のしない私の自室は、少し退屈だった。
音がないせいで、空間の変化のようなものがない。
空間の変化がないと、時間の変化も感じられない。
部屋の電気はついていて、カーテンは締め切っているから、日の当たり方で時間の経過がわかることもない。
私の中の時間の尺度は、部屋に置いてある時計を見るか、読んでいる本の読み進めたページの数だけである。
ちょっと、寂しかった。
もちろん、家族が部屋を移動したりする音は聞こえるので、数時間もすればそんなことはなくなるのだが、もしこれから毎日のように雨が降って、窓を閉めっぱなしにするような日常になるのなら、私は自室という空間との向き合い方を、改めなければいけないのかもしれない。