独り言

本当に独り言です

自由研究の巻

小学生の頃から「自由研究」というものがあった割に、本格的に「研究」という言葉の意味を知るのが大学生になってからというのは、果たしていかがなものか、と思う。

 

小学生の頃の自由研究なんて言うのは、ただの頑張ったで賞大会であって、研究というには程遠い。

工作でもいいし絵を描いてもいい。

大学の論文・レポートでは絶対に許されないコピペのようなものでも、自由研究ならほとんど問題ない。

 

求められているのは「何かを作ること」であって、独創性がなくても特に問題はない。

相当優秀な作品で、コンクールに出品するようなものなら話は違うが、そういう作品はそれなりにちゃんと研究らしいことをしているものなので、土台が違うということだ。

 

子供たちは、ろくに研究のやり方なんて知らないもんだから、下手な自由研究が出来上がってしまうのも無理はない。

そもそも、研究の仕方も教えずに自由研究課題を出すのがおかしいのである。

ましてや、「答えのある教育」が中心の小学校で、いきなり自由研究を宿題として出すのは、泳ぎ方を知らない人を海に突き落とすようなものだ。

 

最近の子供は生まれた時からインターネットがそばにある人も多いだろうから、何かを調べることも容易いのかもしれない。

調べる方法がわかっていればまだマシだが、調べる方法は知らない、統計などのデータを集める方法も知らない、そこから「研究」にもっていく方法も知らないとなれば、そんな人にとって「自由研究」はただの地獄である。

 

小さい頃に、もっと研究の仕方、具体的には先行研究や実体験などに基づいた課題の発見、仮説の立案、検証、客観的な評価、などのフォーマット、を教えてもらっていれば、色々なことを考えるきっかけになったり、新しい学びを得たりできたのに、結局研究のやり方を知ったのは大学生になってからである。

非常にもったいない。

 

大学生になってから、ゼミなどで研究の機会があると、小学生の時の自由研究を思い出す。

あの時もっとちゃんと「研究」の意味を知っていれば、今頃もっと違う人生を歩んでいたのかもしれない。

 

世界との向き合い方を考える上でも、「研究」というのは非常に有効なのに、それに初めて触れるのが大学生、また一部の高校生、というのは少し遅すぎやしないだろうか。

せっかく小学校から自由研究を取り入れているのに、名ばかりの研究に留まってしまっている。

 

教員側の苦労も絶えないだろうけど、もう少し若いうちに「研究」とはどういうものかを、しっかり教わる機会があってもいいと、私は思っている。