ガラケーの巻
ガラケーがほしい。
インターネットが普及して、いつでもどこでも誰とでも繋がることが、「特権」から「当然」になった。
私は、最近そこに少しばかりの生きにくさを感じている。
「当然」からあぶれることが、まるで悪いことかのように扱われる。
何も悪いことなどしていないのに。
別にスマホやインターネットが悪い訳ではない。
私もアナログに拘っている訳ではない。
むしろ、今までの人生の中で、多分にインターネットの利便性を享受してきた立場にあるし、それがこれから変わることは、ほぼ間違いなくないと言えるだろう。
でも、大事なのはそれが「選べる」ことである。
「当然」の思考に陥ると、急に他の選択肢が「選べなく」なる。
昔の私もそうだった。
そして、きっと今の私もまだ「選べない側」にいる。
「選べない側」にいると、生活が窮屈になる。
選択肢が狭まって、分岐が少なくなる。
「選べない」と「選ばない」は違う。
「選ばない」には意志が存在する。
信念を持って選んだ「選ばない」という選択肢と、無意識のうちに選ばされている「選べない」。
両者の差は歴然である。
色々なものがインターネットと接続する世界がやってくる。
我々は、それに完全に抵抗することはできない。
「効率化」の波は、個人の存在を凌駕する程の力を持っている。
だが、私はそこに完全にのみこまれてはいけないと思っている。
なんでもかんでもインターネットに頼り、インターネットがない世界を「選べなく」なったら、とてつもない息苦しさが襲ってくる。
インターネットがある世界と、インターネットがない世界。
これらが併存していて、そのどちらもが「選べる」範囲にあることが、快適な暮らしの第一歩になるのだ。
「当然」からあぶれるのは難しい。
けれど、少しの言い訳があれば、障壁も幾許かは下がるだろう。
だから、私は「言い訳」として、ガラケーを使いたい。
繋がることが「当然」の世界から、少しだけ距離を置くために。