本物の自分の巻
『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』を見た。
あらすじとしては、しんのすけの父、ひろしがひょんなことからロボットになり、なんやかんやトラブルに巻き込まれ、なんやかんや敵と戦い、最終的にロボットのひろしと人間のひろしが「どっちが本物の野原ひろしか」を巡って勝負をする、という感じである。思ったより感動できる話なので、見てない人は是非。
そんなことはさておき、映画を見て私はこう思った。
「突然目の前にロボットになった自分が現れて、どっちが本物か勝負で決めようと言われたら、どうすればいいの?」
話の中では、完全に記憶や性格等を引き継いだ状態のロボットが出てくる。
それも、睡眠薬で眠っている最中にロボットに記憶が引き継がれ、人間側は眠ったまま、ロボットが「野原ひろし」として目覚め、その後の生活を送っているのだ。なんなら最初は嫌がっていたみさえも、ある事件をきっかけにロボットの野原ひろしをひろしとして認めており、普通に生活に馴染んでもいる。
そしてその後、色々あってようやく人間の野原ひろしが目覚め、ロボットの野原ひろしと対峙することになるのだが、もし自分がその立場だとして、自分はどうするのだろう?
劇中では、「どちらが本物か」を競っているため、勝った方が本物で、負けた方が偽物となる。
野原一家は最終的に人間の野原ひろしが勝利し、人間の方を本物とするけれど、私は果たしてそこで勝てるのだろうか。
もちろん、お互いが自身のことを本物だと思っているから、仕方なく勝負で決めようとなっているのであって、どっちが本物かどうかは多分その場では誰もわからないのだろう。
ただ、そうだとして、私は自分が本物の自分であるということにどれだけの執着があるのだろうか。
ふと、そう思ったのである。
そもそも、自分は本当に自分なのか?という疑問が残る。
何をもって本当とするか、それすらもうわからない。
劇中では寝ている間に事が進んでいるけれど、自分だって実は毎日寝ると同時に死んでおり、それまでの記憶が新しい体に移植されて、次の日の朝、新しい生命体として生まれている可能性だってある。
今回はたまたま新しい体がロボットで、かつ古い体と新しい体が交錯してしまったからこのような形になっただけで、もしかしたら明日は我が身の可能性もある。
そんな時、私は自分自身こそが本物だと言うことができるのだろうか……