殺人事件の巻
殺人事件が起きても、
なぜだか全てフィクションに思えてしまう。
小・中学生の頃に、
恐ろしいくらい推理小説しか読んでこなかったために、
殺人事件のニュースを聞いても、
どこか遠い世界で起きた、
フィクションの一部だとしか思えないようになってしまった。
その殺人事件の“読み手”である私にとって、
殺人事件が起きたから怖いとか、
被害者の人が可哀想だとかの感情はほとんどなく、
自然に加害者側の視点に立っていることが多い。
なぜなら推理小説で書かれるのは加害者であって、
被害者ではないからである(被害者視点で書かれている推理小説があったらぜひ読んでみたいので教えてほしい)。
最近ニュースによく挙げられる殺人事件と言えば、
いわゆる京アニの放火殺人事件である。
男がスタジオでガソリンを撒いて火をつけただそうな。
加害者の男は今も予断を許さない状態だと聞く。
大変甚大で悲惨な事件であると同時に、
私の頭によぎったのは、
「ガソリン火災で35人も人って殺せるんだ」ということと、
「犯人死んでないんだ」という2つである。
被害者の方々のご冥福をお祈りする気持ちはもちろんあるが、
35人の人が亡くなったという事実と、
瀕死ではあるが犯人がまだ生きているという事実の方が、
私にとっては衝撃的だった。
これだけの被害をもたらすような重大な事件を起こすくらいだから、
一方的か見当違いかは知らないけれど、
それに相当する程の怒りを犯人は覚えていたに違いないだろう。
それほどの怒りをもってして今回の事件を起こし、
それでいて逃亡を図り、
辛うじて生きている状態を鑑みると、
なんだかんだ犯人にも生きる意志があったと感じられる。
金田一少年の事件簿を読んで育った私の創作脳としては、
それほどの怒りを持つ犯人ならば、
焼け焦げる京アニと共に、
犯人も炎に包まれて焼死した方が、
“美しい”と思うけどな。
殺人事件に対して、
この“美しい”という表現が非人道的で、
大変不謹慎な表現であることは重々承知しているが、
これはあくまでも殺人事件をフィクションとして考えているが故の表現であって、
現実の殺人事件には美しいも美しくないもあったもんじゃないということは理解している。
だけど、
やはり私にとって、
殺人事件はフィクションとしか捉えられないのだ。