最終回の巻
先日、大学の卒業式に出席した。
大学生活の思い出すら解像度が粗くなりつつある私にとって、卒業の悲しみは大学を離れることにはなく、大学生という特権階級から引きずり落とされることにあった。
キャンパスや、使った教室、通学路など、場所に対する執着はもうそこにはなく、ただ学生という身分を利用することで得られていた様々な特典を享受することができなくなることへの不満だけがあった。
苦楽を共にした学友との別れも、案外呆気ないものだった。
特に互いにしっかり目線を合わせることも、咽び泣くこともなく、道端でタクシーを止めるかのように軽く手を振って、それで終いだった。中には特に別れの言葉を交わすこともなく、気づいたらいなくなっている人もいた(むしろそっちの方が多数かもしれない)。
初めは、情報通信技術の発達した現代であれば、また簡単に会うことが出来るだろうという楽観がそうさせているのだろうかと思っていた(それは一種の正しさを持っているという確信がある)。また、自分の執着のなさや、22歳という年齢も、そうさせているのかもしれないと、そんなことを思っていた。
ただ、皆と別れて1人地下鉄に乗り、夜道を歩いて自宅にたどり着いた時、私はふと、その原因が自分にあることに気がついた。
結局、自分はその一瞬を軽んじて生きていたのだ。大した思い入れもないように振る舞い、やろうと思えばいつでもやり直しがきくと、そう思い込んでいただけで、本当はそんなことはなく、ただひたすらに時は流れ続け、遠い未来にそれを思い返して後悔することしかできないのだと、そういう自覚がなかったのだった。
私は一人、風呂場でシャワーを浴びながら嗚咽した。
そこには、その日多くの学友からもらったどの喜びよりも、深い悲しみがあった。
(終)
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