独り言

本当に独り言です

感情表現の巻

感情がない。

というか感情の出し方を理解していない。

約20年生きてきて今更何を言っとるんだと思う人もいるかもしれないけど、

思ったように自分の感情を表現するのが難しい。

 

人より数は少ないかもしれないけど、

それなりに本は読んできたし(推理小説多め)、

少しはドラマやアニメも見た(これは2000年代の話なので今は特に覚えていないが)。

 

自分の感情を表現する機会を、

幼い頃の自分は自分で奪っていたので、

この歳になっても感情の出し方がわからないとかほざく輩が生まれてしまったのだ。

 

というか自分の感情なのに、

どこか作り物だと思ってしまってたんだよな。

なにか出来事があって、

それに対して自分の感情が動いた時に、

そのまま表現すればよかったのに、

「あっこの感情はあのドラマのあのシーンっぽいな」とか、

「このアニメではここでこういう風に感情表現してたな」とか、

そういう要らないことを考えていたら、

自分が感情を出すことって、

すごい誰かの真似のような気がしてきて、

そんな真似事をしてるのは気持ち悪いなって思ったから、

気づいたら感情を表現しないようにシフトしていった。

 

今考えたら何をそんなバカなことをと思うけど、

当時の僕は至って真剣だったのだ。

「これはあれっぽい」「あれはそれっぽい」を繰り返して、

全ての感情が「それっぽい」ものでしかなかった。

なんて平凡な感情なんだ、

こんなものなら出さない方がマシだ、

って思ってしまった。

 

だから逆に最近は、

「この感情はあの映画のあのシーンのあの人の感情に似てそうだな」とか、

「ここの気持ちのこめ方はあのアニメのあのシーンのあの人の感じだな」とか考えながら、

なるべく似たものを表現するようにイメージしてる。

ただ長年のブランクを抱えた僕の身体は、

感情から生み出されるイメージの声を、

そのまま出せるように出来ていない。

今はそれがとても悔しい。

イメージはあるのに、

想像はできるのに、

それができない自分の非力を恨む。

 

もっと自在に自分の感情を表現できたらどれほど楽しいだろうか。

たとえそれが偽りの感情であっても全然問題ない。

偽りの感情すら表現できないこの身体に、

誰か表現の仕方を教えてくれないか。

このままだと僕は、

ただの人間の形をした石になってしまう。

写真の巻

どれだけ技術が進歩して、

素数が上がったとしても、

スマホのカメラで写真がうまく撮れないのは、

僕の腕がないせいなのだろうか。

 

どんなにいいと思った瞬間があっても、

僕のスマホのカメラは決してそれを映してくれない。

しいて言うなれば、

「僕がいいと思った瞬間」を映してくれない。

まぁ当たり前と言えば当たり前である。

なんせ僕がいいと思った瞬間は不可逆的に現在進行形で動いており、

それをスマホのカメラが後から追いかけて撮ることは到底不可能である。

 

さらに言えば、

僕がいいと思った瞬間を捉えるのに、

カメラは感覚が足りなすぎる。

カメラでできることなんて、

せいぜい画角をいじったり光の量とかシャッタースピードとかエフェクトを変えたりするくらいだろう(僕の知識不足であったら申し訳ない。間違っているなら直ちに教えてもらいたい)。

それを使いこなせば、

カメラは我々が普段見ている世界よりもより素晴らしい世界を見せてくれる可能性もある。

例えば星空などがそれにあたるだろう。

しかし、

僕がいいと思った瞬間には、

見た目以外のカメラに収められないコンテンツが豊富すぎるのだ。

 

例えば風。

カメラは空気の流れを映すことはできない。

木の葉だったり、

水面だったり、

風を“ 再現する ”ことはできるけど、

カメラでは僕の感じた風は伝わらない。

 

例えば気温。

カメラは温度を映すことはできない。

暑そうとか寒そうとか、

気温を想像させることもできるかもしれないけど、

カメラでは僕の感じた気温は伝わらない。

 

例えば音。

カメラは音を映すことはできない。

映像として残せば別だが、

写真においては音を想像させることすら怪しい。

カメラでは僕の感じた音は伝わらない。

 

カメラは瞬間を切り取るなんて言うけれど、

現実の瞬間を切り取っても、

手元に残る写真は夢でしかないのだ。

カメラの持つ視覚というひとつの感覚だけでは、

現実を切り取るには足りなすぎる。

 

風がきもちいい。

少し湿った、

けど優しい海風。

腕に塗った日焼け止めの甘いにおい。

風でなびく前髪からするシャンプーのにおい。

あの人のにおいがする。

つないだ手の温もり。

ひんやりした廊下のフローリング。

あの日見た夢。

カメラはなにも切り取れないし、

写真にはなにも残らない。

残り香の巻

人のにおいって意外と覚えてるよねって話。

 

自分のにおいってどんな感じなんだろうって、

たまに気になったりする。

人のにおいはよく感じられるけど、

自分のにおいはわからないから、

たまに今漂っているにおいは他人のにおいなのか自分のにおいなのかってわからなくなる。

 

人のにおいっていうと、

だいたいシャンプーのかおりとか柔軟剤のかおりとか、

香水を使ってる人はその香水がその人のにおいになったりするよね。

シャンプーも柔軟剤も香水も、

世間一般に流通しているから、

その人のにおいというか、

その商品のかおりのはずなんだけど、

同じシャンプーとか、

同じ柔軟剤とか、

同じ香水を使ったら、

自分とその人が全く同じにおいがするようになるかって言われたら、

なんとなくしないような気がする。

あくまでもそのにおいはその人のにおいであって、

自分のにおいとはまた違うんだろうな。

 

だから逆ににおいを嗅ぐと、

特定のものが思い出されることもあるよね。

このにおいはあの人のにおいだってなる時もあるし、

帰り道に漂うにおいを嗅いで、

晩ごはんを想像したりする時もある。

 

日本語には、

「におい」と「かおり」って2つの言葉があって、

「におい」は「匂い」と「臭い」

「かおり」は「香り」と「薫り」をよく使うと思う。

僕はなんとなくにおいっていうと生物の身体とか肉体から発せられるにおいのイメージがあるし、

逆にかおりっていうと生物以外の物から発せられるにおいのイメージがあるけど、

実際は「匂い」「香り」「薫り」がいいにおいで、

「臭い」はよくないにおいに使われるらしい。

日本語って難しいね。

 

実際にはなにもないのに、

そこににおいが足跡をつけていたりする。

そこにいるはずもないのに、

見えないのに、

そこにはなにかがあるのを感じられるし、

逆ににおいだけで、

想像すればそこにないものを存在させることもできる。

 

でもそれが残るのはほんの一瞬で、

気がつくとそこにはなにもない。

なにかがいたはずなのに、

そこには虚空があるだけで、

なにもない。

その一瞬の儚さがまた、

美しく、

そして切ない。

 

ひとりになった時に、

ふと誰かのにおいがする。

頭の中でははっきりとその人だってわかるのに。

ただの虚空に、

その人の面影を感じたいと思ってしまうなんて、

気持ち悪いね。

ごめんなさい。

性別の巻

すっかり忘れていたけれど、

人間も結局動物なんだなって話。

 

大学生ともいう年齢層になってくると、

自分は特に意識していなくても、

周囲や社会は意外と人のことを男の人、女の人という目で見ているんだなぁということに気づくし、

もっと言うと人間のオス、人間のメスとして見ているような場面まである。

 

なにかある度に男だ女だって色々言われて、

はっきりいってめんどくさいなって思う。

こんなことを言うとフェミニストが黙ってないかもしれないな。あぁこわ。

男の人とか女の人とかそういう目で見る以前に、

目の前にいる人をひとりの人として見れていないことに哀しみを感じる。

たまたまその人が男の人であったり女の人であったりするだけなのに、

相手のことを最初からそんな大きな括りで見てしまうことに違和感を感じる。

 

性別って言葉は「性を別ける」って書くから、

別に男の人と女の人に差があるのは仕方ないと思う。

そもそも遺伝子的に男と女は違うわけだし。

でもそれを「区別」することと「差別」することって、

それはまた別問題だよね。

男だから、女だから、っていう違いを事実として「区別」するのは当たり前のことだと思う。

けどあいつは男だからきっと~だろう、とか

あの子は女だから~しなきゃ、みたいな

良くも悪くも配慮しすぎるとそれは「差別」になってしまう気がするし、

悪気がないのかもしれないけどそれは間違ってる気もする。

 

男の人の家に泊まりに行った時、

「なにかあった時に責任とれないから女の子は泊められないよね~」って話をされて、

そうかこの人も自分はオスだという自覚があるのかと思ってしまった。

別に僕は純潔主義者ではないので、

他人が勝手に男女の関係を持ったところで好きにすればいいと思っているが、

ある意味自分の人間関係の中に男女の関係を取り込むことを暗に嫌っているのかもしれない。

ただの特定のひとりの人として見ていた関係性が、

男と女、ないしオスとメスという広義的な関係に変容してしまうことを恐れているのかもしれない。

でもそういう関係の成れの果てに自分が存在していることも理解しているし、

やがてそういう関係を持ってしまう可能性があることも重々承知している。

 

だけど、

今はまだ、

ひとりひとりを特別な人として、

関係性を築いていきたい。

疑心暗鬼の巻

人の心なんて結局よくわかんないよね~って話なんですけど。

 

意外と他人にどう思われてるかっていうのを意識してないつもりなのに実はめちゃめちゃ意識していて、

答えのない問いに1人でぶつかって1人で悩んで1人でくよくよしている。

 

別に全然知らんどこの馬の骨かもわからないやつにどう思われてるかなんて知ったこっちゃないけど、

普通に人間関係においてずっと仲良くしたいと思える人っているじゃん。いや別にいなくてもいいけど。

僕には特に大学に入ってそういう人が増えたんだけど、

僕が仲良くしたいって思ってるだけで相手も僕と仲良くしたいと思ってるかどうかは別じゃん。

 

僕の場合特に相手との距離感が全然わかってないから、

もうちょっと近づいてもいい人に近づけなかったり、

そんなに近づいてほしくないところに気付かぬうちに近づいていたりして、

自分で気付けないうちに相手に嫌われてることがしょっちゅうある(相手に直に確認したわけではないので本当に相手に嫌われているかどうかは定かではないが、少なくとも自分の中では嫌われていると思い込んでいる)。

 

だいたい相手に嫌われているなって思う時は、

直前に無意識に相手のパーソナルスペースに入ってしまった時なので、

次自分が間違えて相手のパーソナルスペースに入らないようにするにはどうすればいいかなって思った時によくやっちゃうのが、

相手が自分のことをめんどくさいと思っている様に、

自分も相手のことをめんどくさいと思い込むことなんだよね。

そうしたらめんどくさいと思い込んでる相手に自分からわざわざ近づかなくなるし、

相手も嫌な思いをしなくて済むんだろうけど、

これのダメなところは、

相手に嫌われている確証がなくても、

僕が勝手に相手のことを嫌いになって、

人間関係が破綻することなんだよね。

だから相手が実際はそこまで思ってなくても、

こっちが勝手に思い込んで距離を置くことで、

距離感がいきなり不自然になっちゃうことがよくある。

 

こんな感じで自分のせいで相手のことを嫌いだと思い込む節があるので、

人間関係の構築が0と100しかないんだよな。

みんなはどういう風に思いながら人間関係を構築してるんだろうか。

僕も自分のせいで勝手に人間関係を破綻させたくないんだけど、

いかんせん人の心はよくわからない。

机上の空論の巻

無駄なことを考えすぎてしまう悪い癖がある。

 

めちゃめちゃ几帳面というわけではないけど、

お金とか時間とかの感覚が人より厳しいのかもしれない。

限られた中でどう動いたら1番効率的に動けるんだろうとか毎回頭の中で考えてて、

むしろそっちを考えてる時間の方が長いんじゃないかってくらい考えてる。

だから旅行の計画とか立てるのもすごく楽しいし、

ここでこれを買ってここでこれに乗ってってすれば1番安く回れるとか、

最後にここに行くために午前中はこっち側を回ってみたりとか、

早く着きすぎても暇だから途中のここで暇を潰したりとか、

ここは電車だったら何分でいくらかかるけど歩いてもそんな時間差ないから歩いていった方が得だなとか、

そういう計算をずっとしてる。

そうやって導き出した答えが自分の中での最適解だと思ってるし、

それ通りに動くことが1番効率的だと思い込んでいる節がある。

まぁ実際そう動いたところで、

それが本当に効率的なのかはまた別の話だが。

 

https://haribotepotter.hatenablog.com/entry/2019/05/17/013000

↑ここでも書いてる通りなんだけど、

自分の描いている最適解はみんなにとっての最適解ではないし、

自分の中で効率性は予定を立てる中で割と大きな割合を占めているけど、

他人にとってその効率性はそこまで大きな比率でもないのかもしれない。

 

消費者行動論の授業で多属性態度モデルというものを習った。

簡単に言うと商品は様々な属性(例えば価格、性能、使いやすさ など…)を持っており、

その各属性が自分にどれほどの重要度を持っているのかを数値化し、

属性と重要度の積の総和を比較して商品を選択するということだ。

 

僕の場合、

効率性とお金に関しての重要度がきっと他人より高く、

効率性とお金に比べて時間や体力の重要度が低い。

安易に無駄な金は使いたくないし、

多少の節約のためなら、

食事を抜いたり、

5駅分歩いたり平気でするような人間なのだ。

みんながみんなそういう人間なら話は早いのだが、

人間関係はそう上手くできてないので、

そうでない人がほとんどだ。

 

こうして僕の考えた最適解はなかったものとなり、

結局そんなことを考えなくても世界は上手く回っている。

変に考えすぎるのも嫌なもんだな。