書き物の巻
文章書くのってすごい力仕事だなぁ~って話。
最近また新しくサークルで使うラジオドラマ用の脚本を書こうと思っているんだけど、
いかんせん言葉と音だけで話を進めるのって難しいわけさ。
しかもその言葉と音を実際に鳴らす前に、
文字として書き起こさなきゃいけないのもなかなかしんどい作業なんだけど。
この作業のしんどい点って何かって言うと、
実際は読み物じゃなくて聞く物として作品になるから、
読んでる時の受け取り方と聞いてる時の受け取り方が違うってことなんだよな。
そのことを忘れて脚本を書いちゃうと完全に読み物が出来上がってしまうし、
読み物はそのままじゃ聞く物に成り得ない。
僕の場合はどうやら聞く物より読み物を作成する方が比較的向いているらしく、
ラジオドラマの脚本を書いている人としては悪い方向に性能がいいんだよな。
だからこの前いっそ思い切って、
聞く物を作る前にその聞く物のベースになる読み物をわざと作ってしまえばいいんじゃないかって発想に至ったんだ。
読み物として完成させてしまえば、
そこから音になる部分を抽出してしまえばいいし、
音にならない部分は文字で予め表現してあるから、
演者の人にはいちいち伝えなくてもいいはずなんだよな。
だからよ~し読み物を作るぞ~って思ってWordを開いて書き始めたんだけど、
思った以上に筆が進まない。
むしろ聞く物を書いている時の方が筆の進みがいい。
そりゃ聞く物の方が書き残す情報量が少ないから早く書き終わるのは当たり前といえば当たり前なんだけど、
単純に読み物の書き方を忘れてしまっているんだよな。
レポートみたいな読み物と、
小説みたいな読み物って、
作り方が違うじゃん。
レポートは必要なことが決まってるし、
レポートの中で必要なことを完結させなきゃいけないけど、
小説って小説の中で完結しなくてもいいわけさ。
どういうことかっていうと、
全てを記さなくても、
小説には想像の余地が存在するわけ。
書き手も伝えたいことを記すんだけど、
それを補完ないし飛躍させるのって書き手じゃなくて読み手なわけで、
それを全て書いてしまうのは小説として違う気もする。
書き手は読み手の想像力を手助けする文章を書けばいいし、
読み手はそれを元に自由に想像すればいい。
だからそういう読み物を書かなきゃいけないはずなんだけど、
読書に疎くなってから、
その関係性を忘れてきてしまった気がする。
こんな状態で僕のお話は果たして完成するのかしら…