独り言

本当に独り言です

国語の巻

国語ができる人と、

日本語ができる人(できるというより使いこなすの方がニュアンス的には近い)って、

必ずしも同じではないよなって話。

 

私は国語ができない。

特に小説が散々だった記憶がある。

学力として必要な“国語”の能力としては、

文章中にある内容だけを理解し、

設問者の意図をその内容の大枠から外れない程度に汲み取り、

正解を導くことにあると思っている。

「国語の答えは全て文章中にある」と言われる所以も、

こういうところにあるのだろう。

 

説明文に関しては、

比較的そういう読み方ができた私だったが、

小説になるとそうはいかない。

私が小説に求めるのは、

文章表記から汲み取れる情景や感情ではなく、

主人公や登場人物の追体験なのである。

実際に自分がその登場人物であったら、

自分は何を思い、

どう行動するか、

小説を読んでいる私はそればかり考えていた。

読み解くのはあくまでも私の感情であって、

作者や設問者の意図する感情ではない。

だから、

私は人の求める“一般的な正解”を選べなかった。

 

そして、

国語のテストで点数がとれるかどうかと、

日本語ができるかどうかというのは別問題であって、

国語ができる人と日本語ができる人は、

必ずしも一致しない。

それは、

国語の求める能力が割と入力寄りなものであるのに対し、

日本語の求める能力は出力寄りなものだからである。

 

私は、

日本語ができるというのは、

自分の考えや感情を、

なるべく齟齬のないように伝えること、

あるいは伝えようと努力することだと思っている。

それは専ら出力の能力であり、

国語に求められる入力の能力とは別物である。

 

言語は“生き物”なので、

厳密なルールなどを求めるつもりは一切ないが、

最低限の“マナー”を守った上で、

自分のものとして使うことはできるだろう。

そういう“マナー”は、

学校教育で教わるものもあるが、

文学作品と関わることで自発的に得られるものが大半だと思う。

 

だからこそそれは、

偏差値とかテストの点数で測れるようなものではないので、

同じ学力レベルでも差は大きく出ることがあるし、

異なる学力レベルでも差がでないこともある。

 

私は国語ができなかったけれど、

日本語はできる人でありたいし、

日本語ができる人と付き合っていきたい。

ふとそう思った。