独り言

本当に独り言です

散歩入門の巻

「趣味は散歩をすることです」と言うと、つい周りの人に年寄りくさいと思われてしまうことがある。

 

近代文明の住人にとって、21歳の青年(青年という言葉からイメージされる躍動感や爽快感、純真さのようなものを私はほとんど持ち合わせていないけれど)の趣味が散歩であることは、それほどまでに不可解なことなのだろうか。

私からすれば、歩くことをただの移動手段のひとつとしか思わず、ひいては苦行のように捉えて毛嫌いし、散歩は定年退職を迎え、人生のイベントも残り少なくなって暇を持て余したご老体が始めるものだとか、運動不足からくる慢性的な肥満を気にした更年期の夫婦が気休めに始めるものだ、とかいうように決めつけている人の方がよっぽど不可解であるけれど、今回それは不問に付すことにしよう。

兎角私が言いたいのは、散歩とはすなわち公園なのだ、ということである。

 

読者諸兄にも、幼き頃に遊んだ公園の記憶を呼び覚ましていただきたい。

ブランコやシーソー、滑り台といった遊具の数々や、集まって何か秘密の会議でもしているのかと思えば途端にポップコーンのように散り散りに駆け出していく少年少女、後ろに子供用の座席を取りつけたママチャリの傍らで話し込むママ友のグループ、何をしているのかさっぱりわからない摩訶不思議なおじいさんなど、様々な光景が浮かぶことだろう。

大きな公園であれば花壇があったり噴水があったり、小さな公園であれば遊具はなく、代わりに小さな広場みたいなものを思い浮かべる人もいるかもしれない。

 

私が思うに、散歩はその間口の広さと活動の能動性、そして“場”としての空間的性質において、公園と一致する部分がある。

 

まず、散歩は誰が行ってもいい。これは公園が特定の年代の人のみに開かれた場所ではないことと同様に、散歩が歩くという行為のみによって規定されている娯楽であって、これに年齢制限がないのは自明である。また、この歩くという行為は、時たま車椅子などに代用されることがあるが、これは問題にならない。

 

そして、散歩は各自の能動的な行動であって、その目的を他者に規定されない。散歩の目的は各々の自由であって、それがどこかに行くことの場合もあれば、何かを見つけること、はたまた季節や時間の経過を感じることの場合もある。

公園は遊具によって遊び方が規定されているじゃないか、という考えもあるかもしれないが、公園の遊具はただそこに存在しているだけであって、厳密には遊び方を規定していない。これは、滑り台を下から上に駆け上がる子供や、ブランコの下に寝そべって度胸試しをしている子供を見たことがあれば容易に想像がつくだろう。遊具は確かにそこに存在しているが、その遊び方は各々に委ねられている。子供たちはその場その場で新しい遊びを考え、そこにある遊具を能動的に活用して遊んでいるのである。

 

最後に、散歩は他者との遭遇をもたらす。

これは散歩という行為というよりも、散歩によって訪れる場所の性質が強いけれども、例えばいつも同じコースを散歩しているとすれば、どこにどんな植物が生えているか、どんな人がいるか、どんな景色があるかが段々分かるようになるし、それを繰り返せば、その中に時間によって変わるもの、変わらないものが見えてくる。逆に気分を変えて違うルートを散歩すれば、今までとは全く違うものに出会えることだって十分にある。

これは公園で言えば、いつも同じ時間に同じ場所でサッカーをしている少年たちのようなものである。毎日のように公園に行くと、そこにはサッカーボールを持って集まる少年たちがいる。しかし次の日には彼らは野球をやっているかもしれないし、更にまた次の日に行くと、その少年たちは他の公園で遊んでいて、いつもの公園には代わりにゲートボールをやっているおじさん達がいるかもしれない。このように時間の経過や場所の変化によって出会うものが変わるというのも、散歩ないし公園の面白い所である。

 

以上のように、散歩は誰もが楽しめる娯楽であり、またそこには深い楽しみ方がある。

都会に住んでいる人であっても、空を見上げながら歩くだけで新たな発見があるはずだ。また、時間的変化が少なそうに見える建物だって、よく見てみれば意外と変わっていることに気がつくだろう。

読者諸兄には、年齢やイメージに縛られず、公園で遊んだあの頃を思い出すように、一度純粋に散歩を楽しんでほしい。そして、散歩の魅力や奥深さを体感していただければと思う。