堕天使の巻
夢の中で、1人の少女が死んだ。
ただ、本当に死んだかどうかはわからない。僕が最後に見たのは宙に浮かぶ彼女の姿だけで、その瞬間に私は目を覚ましてしまったのだった。
彼女は、僕が所属していたバンドのボーカルだった。金髪ショートに白のワンピースを着て、小さい体には似合わない、大きな黒いギターケースを背負っていた。彼女の声はガラスのように、透き通っていて、そして、脆い、そんな声だった。狭いライブハウスで他の楽器の音がガンガン鳴り響いているのに、彼女が歌うと全てが静寂に包まれたように聞こえた。まるで波ひとつない湖の畔にひとり立っているような、そんな彼女の歌が僕は好きだった。きっと彼女自身のことも好きだったんだと思う。だけど、今となっては僕の真意すら推し量ることはできない。
そして、僕は彼女の顔も思い出すことができない。彼女に触れると全てが崩れてしまいそうで、僕は最初から最後まで、ただ彼女の後ろ姿を眺めることしかできなかった。
その日は、雨が降っていた。バンドの練習が終わると、彼女は手際よく片付けを済ませて、音もなくスタジオを後にした。きっとそれはいつも通りの光景だったのかもしれない。それでも僕はなんとなく彼女のことが気になって、のんびり喋っている他のメンバーを置いて、彼女を追いかけるように外に出た。
彼女は、スタジオから道路を挟んだところに1台だけある電話ボックスに入って、誰かに電話をかけていた。曇ったガラスのせいで顔は見えなかったが、時折頷く彼女の頭と、それに伴って大きく揺れるギターケースの影が見えた。
しばらくして、残りのバンドメンバーがスタジオから出てきた。そしてそれとほぼ同時に、彼女も受話器を置いて電話ボックスから出てきた。
僕達は最寄りのバス停に向かって歩き出した。彼女は傘も差さず、僕らの数歩前を歩いていた。雨は彼女の黒をより黒たらしめ、彼女の白をより白たらしめていた。僕は彼女に傘を貸そうとして、彼女の疲れきった背中を見てそれを諦めた。彼女の姿は、さっきより一段と小さく見えた。
雨の降りしきる中、人気のない暗い住宅街の真ん中で、彼女は3本もバスを見送った。びしょ濡れになった彼女に、僕は相変わらず手を差し伸べられずにいた。彼女はそういう無責任な手助けを嫌う人だったし、それは僕にもなんとなく察しがついていた。
4本目に来たバスは、限りなく満員に近かった。それでも彼女はそのバスに乗ることを選んだ。僕もその後に続いて、狭いスペースになんとか体を押し込み、ギリギリ乗車することができた。
バスはゆっくりと走り出した。駅までどのくらいの距離があったかはわからないが、バスはとても長い距離を、とてもゆっくり走った。
途中、大きな橋を渡っている時、一瞬だけ雲の切れ間から太陽が顔を出し、川の上に小さな虹をかけた。僕はその光景を彼女に見せようとして狭い車内で振り返ったが、そこに彼女の姿を見つけることはできなかった。
駅に着いた時、雨はまた強くなり始めていた。
バスを降りた僕は、再び彼女の後ろを、少し距離をあけて歩いた。雨の休日とはいえ、駅前のコンコースは多くの人でごった返しており、僕は彼女を見失わないように必死になって彼女を追いかけた。
JRの改札の前で、彼女はようやく立ち止まった。僕らが追いつくと、彼女は俯いて、首だけを後ろにいる僕らに語りかけるように傾けた。雨に濡れて輝く金髪の隙間から、小さな口だけが見えた。
「それじゃあ」
彼女は限りなく小さな、でも駅前の賑わいの中でも聞こえるような声で、そう呟いた。そして、僕らが返事をする前に、人混みの中に駆け出した。
彼女の姿はとても小さかった。それでも僕はすぐに駅前の歩道橋の階段を駆け上がる大きなギターケースの姿を認めた。
「またね」
彼女に聞こえるように、大きな声で僕は言った。
一瞬、彼女が笑ったような気がした。
その刹那、彼女は歩道橋の手すりに足をかけ、歩道橋の柵の上に立ち上がった。そして両手を大きく広げると、そのまま頭からゆっくりと前のめりに倒れ始めた。
突如、世界がスローモーションに見えた。彼女はふかふかのベッドに飛び込んだかのように、穏やかに宙に横たわっていた。風に揺れる金髪と白のワンピース、そして大きな翼のような黒のギターケースを身にまとった彼女は、翼の折れた堕天使のように見えた。
僕は彼女に向かって手を伸ばした。その手は虚しく空を切った。
その瞬間、私は目を覚ました。
遠くでガラスの割れる音がした。