抱き枕の巻
最近、枕を抱いて寝ている。
本当にただの枕、普通はみんなの頭の下にあるはずの枕を抱いて寝ている。
経緯は忘れたけど、なぜか親が昔使っていた枕を出してきて、
しまうのもめんどくさくなったのでとりあえずそのままにしておいたらそうなった。
結構昔、それこそ小学生の頃とかは、
めちゃめちゃちっちゃい、ほんとに生まれてすぐくらいの時に買ってもらったくまのプーさんのぬいぐるみをずっと抱いて寝ていたんだけど、
長い年月を経るうちにプーさんに傷が目立つようになったので一緒に寝るのを辞めてしまった。
そのプーさんは今でも枕元にいるけれど、
もはやただのモニュメントと化してしまって、
もうあの頃のプーさんではなくなってしまったような気がする。
少しさびしい。
仰向けの状態で身体の右側にその枕を置いて、
それを抱きかかえるようにして眠る。
右側に枕があるのは必然であって偶然ではない。
右側に枕を置く理由は、
あの日を忘れてしまいたくないからだ。
あの日見た横顔を、
あの日嗅いだ香りを、
あの日感じた温もりを、
忘れてしまいたくないから。
ただそれだけなのだ。
自分の中に弱った時にちゃんと頼れる軸がないから、
過去の楽しい思い出を引っ張り出してきて、
それに縋って生きているのだ。
もっと現実に縋れる綱があればそれに縋って生きていくけど、
あいにく手元には藁すらないので、
とりあえず過去に引きずられている。
ふと目を開けた先に見た光景を、
なんとか思い出したくて、
ふと手が触れたその感触を、
なんとか手に残したくて、
あの日の真似をするけれど、
それは真似でしかないのだ。
欲が強いから、
1回の特別が特別であってほしくないと思っている。
その特別を1回きりのものにしてしまうのはすごいもったいなくて、
特別が日常になることを半ば望んでいるけれど、
半ば諦めていたりもする。
1回きりの特別だからこその価値がきっとそこにはあって、
それを日常に溶け込ませてしまうことで、
失われてしまうこともきっとある。
だから頭の中では、
それが日常とはかけ離れた特別であることを理解しようとしているけれど、
その何かを忘れる怖さよりも、
特別が特別でなくなることを望む期待の方が大きくなってしまう。
これは僕の我儘なのだ。
さて、今夜は夢を見れるだろうか。
それでは、おやすみなさい。
休日の巻
目覚まし時計のアラームをセットしないでいい喜びをめちゃめちゃ噛み締めてる。
なんとなく寝て、なんとなく起きたら13時過ぎ。
西向きの窓の外から陽の光がこっそり侵入してきたから、慌ててカーテンを閉めてもう一寝入りしようかと思ったけど、やっぱりそこまで眠くないので仕方なく起き上がる。
お腹も減ってるしね。
なんとなく台所に行ってなんとなくあったパンを掴んで食べて、なんとなくコップに豆乳を注いで飲む。
窓の外は暑そうだけど、家にいれば関係ないね。
本当は色々やることはあるけれど、休日なので知ったこっちゃない。
休日は休むためにあるからね。
別にわざわざやりたくもないことをやるような日じゃない。
気が向いたからピアノを弾くし、気が向いたからゲームをするし、たまたまやってたからYouTubeのライブ配信で海外の卓球の試合を見る。
ちょっと面白そうだったから検定試験の勉強もしたし、久しく電源を押してなかったからテレビを見てみる。
まとまった時間がないとテレビを見るのもめんどくさくなっちゃうから、録画して溜めてたコナンを一気に見る。
まさか黒ずくめの組織のボスの名前がわかるなんて思わないじゃん。
気がついたら3時間経過。
両親は揃って出かけていたから家にはひとりしかいない。
ひとり暮らしを始めたら一瞬で堕落する想像は十分できた。
確実に色々なことがめんどくさくなってQOLは爆下がりするに違いない。
もし誰か希望者がいれば僕のことを養ってください。
任された仕事は基本的にやります。
教えてくれれば大抵のことはできるようになるでしょう。
好きな人にはとことん甘えるけど、嫌いな人にはめちゃめちゃ威嚇します。
基本無口だけど、話しかけると喜ぶタイプです。
かまってちゃんです。
めんどくさがり屋です。
三日坊主です。
好きなことだけやって生きていきたい。
毎日がえぶりでい。
そんな呑気なことは言ってられないけど、どうせ叶わないんだからせめて口に出すくらい許してほしい。
さすがに現実と夢を見間違えるような程にはなってないので、ちゃんと明日からも現実を生きていきます。
来週末から多分月末まで休日は予定が入りたい放題だったから、次休めるのはいつになるのだろうか。
明日より通勤特急、毎日ノンストップで運行致します。
それでは平日に向かって、出発進行!!!
結婚の巻
結婚してぇ(唐突)
いや結婚したくない?僕はしたい。
いやなんでこんなこと急に言い出したかって言うと絶対この前南海キャンディーズの山ちゃんと蒼井優の結婚記者会見見たからなんだけど、
あれめちゃめちゃよかったよな!!!控えめに言って最高。
いやぁうらやましいことこの上ないでしょあれは。
2人で楽しそうに話したり、
目を見て照れ隠しに顔を背けたり、
いつものようにちょっと上手いこと言いたかったのに緊張して空回りしたり…
なんて言っていいかわからないけど、
あの瞬間の2人は最強だった気がする。
記者の質問を全部直球で受けてそれを全部打ち返してるの見たら、
外野がどう騒いでも関係ないんだなって思っちゃうよね。
その2人の間にはきっと1本の太くて大きい軸がちゃんどっしり構えていて、
ちょっとやそっとのことじゃ動かないんだろうなぁ。
困った時には互いに頼ればいいっていう安心感はきっとすごい大きいだろうし、
なにより2人の間にちゃんと愛があるっていう関係が一目見てわかるって相当なことだと思う。
愛って形は目に見えないし触れないしどんなものか正直よくわからないけど、
僕的には究極の信頼関係だと思っていて、
信頼ってのもまた目に見えなくて触れなくてどんなものかよくわかんないけど、
逆にこれを言語化して理解しようとするのは違うような気がしている。
わからないことをわかろうとするために、
言葉って必ずしも必要なものじゃないよね。
信頼という言葉を言葉で理解しようとしている時点で、
僕は人を信頼してないんだろうなぁと思う。
だからこそその信頼に憧れを持つし、
その果ての愛に憧憬を抱く。
ちなみに辞書で信頼を引くと、
「信じて頼りにすること。頼りになると信じること。またその気持ち。」(デジタル大辞泉より)
だそう。
さらに愛を調べてみると、
「①生あるものをかわいがり大事にする気持ち。
②異性をいとしいと思う心。男女間の相手を慕う情。
③ある物事を好み、大切に思う気持ち。
④個人的な感情を超越した幸せを願う深く温かい心。」(デジタル大辞泉より一部抜粋)
だそうです。
はぁ…うらやましい。
思わずため息をついてしまった。
信頼だの愛だの、
僕にはまだ早い概念なんだろうか。
兎にも角にも、
お二人の幸せを一個人としてお祈り申し上げます。
梅雨入りの巻
いやぁついに梅雨入りしてしまった。
ここから雨の季節が1ヶ月ちょっと続くと考えるとあまり気持ちのいいものではない。
雨が嫌いなわけではないのだ。
むしろ少し雨も楽しかったりする。
だけど雨のせいで服が濡れるのが嫌なのだ。
雨に濡れたズボン、靴下、靴。
身体の周りに要らない水分を纏っている感じがきもちわるいのだ。
服が濡れない程度の雨なら全然構わない。
傘に打ちつける水のリズムを楽しむまである。
最近、通学路の脇を流れる小さな川の水が日に日に少なくなっているのをずっと見ていたので、逆にここら辺で雨が降ってくれないと迷惑なのかもしれない。
どこか忘れたけど貯水量ゼロになっちゃったダムがあるとか言ってたよね。
確かに最近晴れが続いていたし、自然界にとってこれからの雨は恵みの雨になるんだろうなぁ。
雨の嫌なところをもうひとつあげるとするならば、雨が降ると傘を差しながら歩かなきゃいけないので、上を見ることができないのだ。
初夏の青々とした若葉の緑色が雨に濡れて濃くなっていくのは楽しめるけど、木の上にとまる鳥の姿を見上げることはできないのだ。
別に頑張れば傘を差さずに歩くこともできるのだけれど、メガネをかけている僕としては傘は手放せない。
雨のせいでレンズが濡れて、まともに歩くこともできない。
映画のワンシーンとかで、主人公が雨に濡れながら歩いたり、雨に濡れながらも陽気に踊ったりするシーンがあったりするじゃん?
それに一時期めちゃめちゃ憧れてた時があったし、なんなら今でも少し憧れてる。
まだ目が悪くなる前なら、そんなことは簡単にできたと思うけど、今となってはメガネが濡れるめんどくささの方が勝ってしまうし、雨に濡れたら風邪をひいてしまうかもしれないとか無駄な心配をしすぎてしまうからそんなことをしようとは思えなくなってしまった。
もったいないな。
こういうことはもっと若いうちにやっておくべきだったのかもしれない。
まだ何も考えていない、純粋無垢な自分にそっと、
「雨が降ってるから外で遊んでおいで」って言ってやりたい。
きっと昔の僕も雨の中外で遊ぼうとは思わないからその囁きを断るんだろうけど、その時できることはその時しかできない。
やらない後悔よりやる後悔って言うけど、そんな簡単に行動におこせる奴は後悔なんてしないんだろうな。
前髪の巻
めちゃめちゃ髪を切りたい。
最後に切ったのは果たしていつだったっけか。
いつ切ったか覚えていないくらいだから、少なくともここ1ヶ月は切ってないのだろう。
別に長い髪が嫌いなわけじゃない。
むしろ少し長いくらいが好きだし、目にかかる前髪を鬱陶しいとは思っているけど、それをかき分けるのも少し楽しかったりする。
自分で髪を切るのも、人に髪を切ってもらうのも、絶対に上手くいかないと思っているからできることならお気に入りの髪型で永久保存してもらえればいいのだが、僕の意識とは無関係に髪の毛はどんどん伸びていくのでどうしようもない。
はっきり言って邪魔なのだ。
だから、切る。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、邪魔だから切る。
それだけなのだ。
当の前髪自身がどういう気持ちで伸びてきているのかは知る由もないが、
僕の視界を遮ろうとして伸びてきているわけではないと思いたい。
もしそのつもりで伸びてきているのなら相当僕の前髪はタチが悪い。
そんなやつは無慈悲に切られてしまえばいいんだ。
きっと前髪も別の理由があって伸びてきているし、決して僕に危害を加えようとしているわけではないことも容易く想像できる。
むしろ僕のために伸びてきているまであるだろう。
前髪に意思があるかどうかは置いといて。
僕も別に前髪が好きじゃないから髪を切るわけではない。
好きとか嫌いとか、そういう次元の話じゃないんだ。
伸びたから切るのだ。
君が僕をどう思っているかは知らないが、ただ君は伸びすぎたのだ。
だから切られるのだ。
出る杭は打たれるのと一緒で、伸びた髪は切られるのだ。
すまんな、悪気はないんだ。
僕は切る側だからこんなにあっさりしているけれど、もし切られる側の前髪に意思があったらめちゃめちゃしんどいだろうな。
きっと主人に似てめちゃめちゃ重いメンヘラごっこをしているに違いない。
なんで私のことを切るの?
私はあなたのことを慕っているのに、あなたは私のことが嫌いになってしまったの?とか言ってるんだろうな。
客観的に見たらめちゃめちゃめんどくさいやつだなぁとは思うのに、実際自分が誰かの前髪になったら絶対そう思っている自信まである。
ほんとめんどくさいよね、ごめんなさい。
二面性の巻
人には必ず二面性がある、と思っている。
一番わかりやすいのが、プラスの面とマイナスの面だろう。
誰にでもいいところはあるし、悪いところもある。
できることも、できないこともある。
なんでもできるように見える人もいるけど、そういう人にもきっとどこかに弱点があって、その人はただ、その弱点を隠すのがうまいだけなのだ。
人は万能ではない。
過度な期待は人に負荷をかける。
次にわかりやすいのは、多分表と裏だろう。
本当にみんなにあるかどうかはわからないと言っておくが、僕は人にはコインのように表と裏があると思っているので、いつもその裏に怯えながら生きている。
コインもそうなのだが、残念なことに我々は表と裏を同時に見ることはできないのだ。
そのせいで我々は余計な詮索をしなければならないし、逆にそのおかげで知らなくていいことを知らずに済むこともできる。
僕の場合、officialな自分とprivateの自分が存在していて、基本的にはずっとofficialな自分として生きている。
これは公共の場所にいる時だけでなく、昔の友達や親戚、親の前でもofficialな自分として生きているし、privateな自分を見せるのは相当心を開いている(または開きたいと思っている)相手か、相手のprivateな部分(とこちらが勝手に解釈している)を見せてくれた人くらいで、それ以外は自分ひとりでいる時しかprivateな自分になることはできない。
このブログは元々privateな自分が見たり聞いたり感じたりしたことを、なんとか頑張ってofficialな自分の表現に落としこむために始めたもので、文字に起こすことの抵抗は少しずつ減ってきたけど未だに本当にprivateな部分は書けないし、口にすることはもっとできない。
自分の声を通して発信することは、文字を媒介させるより何倍も労力がかかる作業なのだ。
privateな部分を出すのはとても難しい。
自分の本質を公開してさらし者になっている気がしてとても恥ずかしく思ってしまう。
privateな部分には人には言えない行動とか感情とか欲望があって、誰かに聞いてほしかったりすることもたくさんあるけれど、それを誰かに伝えることで何かを失ってしまう気がして結局伝えることはできない。
きっとね
秘密は多い方が
どうだろう
優しくなれるでしょう
いつかね
思い出した時に
苦しいくらいの痛みを頂戴
同調の巻
最近、口にするものが全て甘く柔らかく感じる。
生活での主食がパンになっているから仕方のないことなのはわかっているけど、パン以外もだいたい甘いしだいたい柔らかい。
というか、丸いのだ。
角がないのだ。
みんな棘のない丸まった形をしていて、穏やかな表情をしているのだ。
少しくらい個性があって尖ったやつがいてもいいのに、そういうやつが全然見つからない。
ああつまらない。
これなら何を食べても一緒じゃないか。
食べ物だけの話じゃないけど、なんていうかみんながみんな見えない「平均」を目指しているような気がする。
大衆消費社会だとか規模の経済だとか、詳しいことを言うつもりはないけど、ありとあらゆるものが同質化してきているように感じる。
世間の人々はそれを「モラル」だとか「デフォルト」だとか「当たり前」だとか言うけれど、誰がそれを決めたのだろうか?
みんながみんな同じ方向を目指しているという幻想に取り巻かれて、その流れに乗れない人を下に見たり、蔑んだりして、敬遠するようになってしまった。
というかずっと前からそうだったことに、僕が今更気づいただけなのかもしれない。
みんなで同じような服を着て、同じようなものを食べて、同じような暮らしをして、同じように死んでいく。
そんな同調の成れの果てのような世の中では、同調の圧力を受けながらもうまく別の潮流に乗り換えようとする人もいる。
みんなと同じことを嫌って、だけどみんなと違うことは怖くて、「同じ」の中で違いを見出そうともがいている。
その結果、いくらかは「同じ」の範疇を飛び出して、異端だと呼ばれ、同調の潮流から完全にドロップアウトしてしまうが、稀に「同じ」と「違い」のハイブリッドを生み出すやつもいる。
しかし、実は周りの人も同じように「違い」を求めていて、誰かの作った流れに乗って、「違い」を目指す。
それを人々は「流行」というのだ。
結局、「同じ」の中に生まれた「違い」は「同じ」の中に取り込まれて、いつしか新しい「同じ」が形成される。
その繰り返しでしかないのだ。
人々は完全な「違い」を畏れている。
というか、完全な「違い」を得ることで周囲から孤立することを恐れている。
僕もまたそんな人のひとりで、
「違い」を求めているのに、
「同じ」であることに甘んじている。
結局人はひとりでは生きていけない生き物なのだ。