独り言

本当に独り言です

遊びの巻

サークルの先輩がリツイートしていた東大のゼミのTwitterが、「遊び」についてリレーエッセイを書いていたのに触発されたので、私も「遊び」について書いてみようと思う。

 

幼少期、特に小学校に入る前までの頃にある「遊び」というのは、比較的「創造力を育む」ものであった。

面倒くさいことを何も考えずに、ただ純粋に自分の好奇心の赴くままに、言わば「自分の世界を広げるための道具」のひとつだった、気がする。知らんけど。

 

しかし、私の場合小学校入学以降、「遊び」の価値は一変した。

学校というコミュニティの豚箱に放り込まれた瞬間、「遊び」は「社会で生き残る術」になってしまった。

「友達」という社会集団は、非常に民主主義の強いコミュニティで、グループ内で決まった遊びとは異なる遊びをすることを極端に嫌い、それを排斥することによって集団としての形を保ってきた。

彼等と「友達」でいるためには、彼等と同じ「遊び」をしなければならなかった。

どんなに自分が走るのが不得意であっても、鬼ごっこには参加しなくてはならなかったし、どんなに運動ができなくても、野球やサッカーを楽しまなければならなかった。

「友達」がゲームをすると言ったら、例えゲームを持っていなくてもそのグループに残るためにはゲームをしなければならなかったし、ゲームを「持つ者」である友達と、「持たざる者」である私の「友達」としての関係性は非常に脆弱で、軽いものだった。

 

「遊び」とは多様性だと思っていた。

人それぞれの「遊び」があって、それは人と違っても許されるものだと思っていた。

 

しかし現実はそうではなかった。

 

社会は人と同じ「遊び」を求め、社会は人と同じ「遊び」を提供した。

我々は社会という制限された箱の中で、いかに他人と違う「遊び」をしつつ、社会から外れない「遊び」を見つけるかを探らなければならなかった。

それは小学校も、中学校も、高校も、大学も、そして社会人になってもきっとそうなのだろう。

 

そうじゃないのだ。

 

私にとって「遊び」は、幼少期に体験した「創造力」だったし、「自分の世界を広げる道具」だったのだ。

他人のことを気にしなくとも、心の赴くままに生きることが「遊び」だったのだ。

社会の柵とか規則とか、人々を縛る糸はたくさんあるけれど、その中でも我々は、自由に「遊ば」なければならないのだ。

 

私がもし東大生だったら、そのゼミに非常に関心を寄せていたかもしれないが、生憎私には東大生になれるほど勉強を頑張る意欲がなかった。

しかし、大学生にもなって本気で「遊び」を考えるプロジェクトはとても興味深いし、私も完全に外野からではあるが、応援したいと思っている。

 

頑張ってほしいなぁ。

それでは。