許しの巻
もう何日も「許す」ということについて考えている。
許すということを考え始めたのは、芦田愛菜さんが映画の舞台挨拶で語った「信じるということ」を聞いた時であった。
詳しくはネット記事などを読んでもらえばわかると思うが、彼女の考えはとても深く、またとても共感できるものだった。
そして、私は彼女の意見に全面的に同意した上で、さらにもう1つ考えたことがあった。
彼女は、裏切られたとしても、その人の見えなかった部分が見えただけだから、その部分もその人として受け止める(要約)、というようなことを言っていた。
私は、それは最終的に、どれほど他のものを許せるか、という所に帰着するように思えた。
基本的には人は自分の見たもの、聞いたもの等を正しいと思っているはずだ。
そして、その正しいという判断は、最終的にその情報が正しいものだった時に許せるかどうか、という観点で無意識に下されているのではないだろうか。
例えば、映画で親戚の訃報を知らせるシーンなどでよくある、「嘘や!そんなわけない!」みたいに登場人物が頑なにその訃報を信じようとしない場面を考えよう。
この場面で、親戚が亡くなったのは正しい情報だ。
しかし、どんなにその情報が正しくても、それを許せない限り、その情報を信じることはできないのだ。
色々端折った部分もあるが、私としては「信じること」と「許すこと」は同義な気がしている。
あなたのことを信じている、ということは、あなたがどんなことをしても私はあなたのことを許す、ということと広義では同じように思えるのだ。
しかし、許すということはとても難しい。
私も他人を許せないと思ったことが、幾度もある。
許すというのは絶対評価ではないし、時、場所、場面など、様々に使い分けなければいけない。
もっと寛大な心を持って、色々なことを許せる人でありたかった。
許せる人で、ありたかった。